アドラー[嫌われる勇気]考察②「過去に支配されない生き方」原因論ではなく目的論を理解する!

 

 

<前回の記事>に続いてのアドラーの「嫌われる勇気」の「原因論」と「目的論」についてです。

今日の記事では、人は感情にも支配されず、過去にも支配されないようにすべきだという話です。

まぁ前回と似たような内容になるかと思います。

 

前回の記事でも書きましたが、少しややこしい「原因論」や「目的論」を簡単に言うと、まず「原因論」と「目的論」は単なる捉え方や考え方の違いであり、指しているものはどちらも同じものであるということです。

前回の記事の例で言うと、青年の友人が家に引きこもって外に出れない理由として、イジメ・虐待・不安などの「原因」が存在するために、外に出たくても出れないというのが「原因論」という考え方です。

一方でアドラー心理学では、「いやいや、あなたは外に出たくても出れないのではなく、外に出たくない理由を探しているのだよ」というのが「目的論」という考えです。

つまり、トラウマがあるから外に出れないという「原因論」という考え方ではなく、本当は外に出たくない目的を達成するためにトラウマを利用にしているという「目的論」が真実であるんだよ、ということを認識しなければ、人はいつまで経っても変われないのだよというのが、哲人の説くアドラー心理学であるということです。

 

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アドラー「嫌われる勇気」「人は怒りを捏造する!」人は感情すらも実はコントロールしている!?

アドラー心理学を説く哲人に対して、「原因論」を否定されれて、それは本当は「目的論」だという説明に納得がいかない青年は、また別の例を持って「原因論」の正当性を哲人に認めさせようとします。

要は青年は今の現状の不満の原因は、自分にあるのではなく他者に原因があるのだ、自分は悪くないという考えです。

青年は先日喫茶店に行ったときに、ウェイターに一張羅の上着にコーヒーをこぼされたと言い、青年は怒りの感情を抑えきれずにそのウェイターを大声で怒鳴りつけたということです。

青年曰く、これは一時の事故により感情が爆発して、怒りに任せて自分をコントロール出来なかった、これは不可抗力であり、その瞬時の感情に「目的論」が出てくる余地はなかったと言います。

青年の主張は、これは「目的論」ではなく「原因論」の何物でもないということです。

しかしアドラー心理学による考え方を説く哲人はこの例ですらも「原因論」を否定し、それすらも本当は「目的論」だと主張します。

青年「なんですって?」
(という下手な芝居のようなやり取りがよくあります)

哲人の説く「目的論」としては、ウェイターにコーヒーをこぼされて抑えられない怒りの感情を出したのではなく、自分に非礼をして恥をかかせたウェイターに対し、同じように恥をかかせ相手を屈服させて自分の言うことをきかせようとする「目的」のために、その手段として怒りの感情を捏造したということです。

その理由として、例えコーヒーをこぼされて一張羅を汚されたとしても、怒りの感情を出す必要もないし、大声を出す必要もないし、ウェイターも丁重にお詫びもしただろうから、落ち着いてしかるべき措置もとれたはずだということです。

こういうことって世の中のほとんどの人が経験あるかと思います。

別にコーヒーをこぼされたということだけでなく、例えば急にぶつかってこられて転ばされたとか、自分の大切なものを誤って壊されたとか、人前で恥をかかされたとか、要は怒りの感情に支配されたときです。

ちなみにこのカッとなった怒りなどの感情すらを否定しているわけではないのです。

感情は誰にでもあるし、一瞬カッとなることもあるけれど、でもそれは一瞬のことであり、人は本来感情に支配されないことが出来ると言っています。

逆に哲人の話の例として、母親と娘が大喧嘩しているときに電話がなり、怒りの感情を持ったまま受話器を取ると、電話の相手は学校の担任の先生でした。
母親は瞬時に怒りの感情を引っ込めて丁重な態度を取ったということです。

これもまぁよくある話ですよね。

このよくある話を例にして、哲人は「怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです」と言い、きっと担任の先生との電話が終われば、また怒りの感情を出して娘と大喧嘩の続きとなるということです。

これは一瞬「ん?」と思う人もいるかもしれません。

怒りの感情を出している相手はあくまで娘であり、娘の担任の先生には怒りの感情が元々湧いていないのだから当然では?と思う人もいるかと思います。

しかしここで哲人が言いたいことは、「怒りの感情はコントロール出来る」ということなんです。

もちろん中には誰に対しても関係ない人に対しても、怒りの矛先を収められない人は居ますけどね。

きっとそのような人は、本来コントロール出来る怒りの感情が、コントロール不能となってしまっている大変困った人だということです。
簡単な例で言うと「酒は飲んでも飲まれるな」ではありませんが、お酒に酔って制御不能になった人と同じかもしれませんね。

先の母親と娘の喧嘩の例で言うと、母親は娘に威圧的な態度を取る「目的」のために、怒りの感情を利用して引っ張り出してきているということです。

 

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アドラー「嫌われる勇気」「過去に支配されない生き方!」

青年は「哲人は人間の感情を否定している!」「人間の感情を否定するということは人間性をも否定しているということだ!」といきり立ちますが、上でも書いたように、アドラー心理学では感情を否定しているわけではありません。

感情を否定するとそういうことではなく、「感情をコントロール出来るはず」ということなのです。

これは「感情には抗えない(あらがえない)という考え方を捨てよ!」ということなのでしょう。

そしてさらに「人は過去にも支配されない」とも言っています。

「人は感情に支配されない」

「人は過去にも支配されない」

こういったことも、「原因論」やら「目的論」の違いという考え方なのですが、このようなアドラー心理学の説く内容としては、あくまで「人は変われる」「人は変わることが出来る」ということを前提としています。

ここまで書いた「原因論」で言うと、「外に出れないのは過去のせいだ!」「俺が大声を出して怒ったのは感情のせいだ!」「私が大声を出して言うこときかせようとしたのは娘のせいであり感情のせいよ!」という、いわゆる他者であり過去のせいだということなのです。

これは言うまでもありませんが、ある意味「感情に支配されている」状態であり、「過去に支配されている」状態だということです。
(真実は目的を達成するために利用しているということですが)

アドラー心理学で哲人が言いたいことは、「その考え方や価値観を捨てなければ『人は変われない』のだ」ということなのです。

もし自分が変わりたいのであれば、いつまでも感情や過去に縛られたふりをするのではなく、まずは「原因論」から「目的論」であるということを認識しなさいということです。

まずはそれを認識することによって、きっと自分の今までの価値観が崩れていきます。

今まで誰かのせいにしてきたことが、実は自分の意志であり自業自得であったと認めるということですから。

何をするとかではなく、まずは認めるということです。

これは本人からしたら180度の価値観が変わるかもしれませんが、価値観が変わるということは、きっともうその人は「変れている」のだと思うのです。

 

今日のまとめ

前回の記事では、まず「原因論」と「目的論」理解という内容でしたが、今日もその続きといった内容であり、更に怒り感情すらも人は実は利用しているんだということです。

怒り、悲しみ、喜び、楽しみといったいわゆる喜怒哀楽の感情というのは、私は人間として必要なものであり、人間特有のすばらしい感情なのだと思います。

しかし、それらの感情を実はあなたは利用していませんか? 感情に支配されていませんか? ということをたまにでも見直してみるのも良いかもしれません。

こういった自分の感情をコントロールするトレーニングを進めていくと、徐々に感情をコントロール出来るようになってきます。

歩いてて人にぶつかられた、満員電車で押された、足を踏まれた、上司に怒られた、友達に意地悪された、このような時の怒りや悲しみの感情が、今は例え抑えきれないとしても、このトレーニングを自分なりに日々少しずつすることによって、自然と抑えられることが多くなってくるのです。

妙に冷静でいたれたり、逆に相手に対して同情をしてしまったりなど、そういった思いが出てきます。

これは一種の思いやりでもあるのです。

三歩進んで二歩下がっても良いですし、二歩進んで三歩下がっても良いですし、時には二段跳びなどもあるかもしれませんが、このようなことをやっていくと知らず知らずのうちに「人は変われる」になっていくのだと思います。

(続く)

 

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